故 中川泰彦さん

 

平成18年2月,部室を掃除していた現役部員が古い部旗(写真下↓)を発見しました。

濃緑に赤2本線。昭和40年代のファースト・ジャージ色の旗です。

旗には「贈 泰彦」の文字。

昭和45年11月に亡くなられた故中川泰彦さんのご遺族が

寄贈してくださった旗と思われます。

このような旗の存在は,昭和57年卒業の私も知りませんでした。

 

中川さんのエピソードを知らない部員も多いことでしょう。

今もなお,部室に飾られている遺影(写真上↑)は一体誰なんだろう?

と思っている部員もいることでしょう。

 

発足75年目を迎えている,松中・東高ラグビー部の歴史の一幕として,

決して欠くことのできない,中川さんのエピソードについて

ここに記することといたします。

 

事故から約35年が過ぎた今もなお,「やっちゃん」は

現役の活躍を見守ってくれているのです。

ボールを抱き大空をかけめぐりながら・・・

 

平成18年3月記

【青柳7号(昭和46年)より】

 

故中川泰彦君をしのんで

 

 「中川泰彦」君は,もう帰らぬ人となってしまって,クラス全員は,深い悲しみに包まれてしまいました。

 

 入院してから、一時少し状態が良くなって、目をあけてうなずき、口をあけて物を言う徴候が見えて僕達は一縷の望をいだいたのですが、11月22日午後9時35分、両親や、多数の級友に見守られ、安らかな眠りにつきました。(注:この日付は他の記述と整合しません。事故は22日。亡くなったのは数日後です。)

中川君は、みんなから、ニックネームの「やっちゃん」と呼ばれクラスの人気者でした。やっちゃんは、青春時代を自ら選んだラグビーで身体を鍛え、根性を養いました。また、やっちゃんの人なつっこい性格はたくさんの友情を育て、18才の短い生涯でしたけれども、充実した人生だったに違いありません。

「やっちゃん」のことは、クラス全員一生忘れる事はないでしょう。そして、やっちゃんのためにも、クラス全員はこれからの人生を明るく、又生きがいのある人生を送りたいと思います。

 

【青柳11号(昭和50年)より】

 東高名ラガーであった中川泰彦君が、交通事故で亡くなって4年。今もなお続く友情に、おかあさんから感謝の声が届きました。(愛媛新聞○月○日付)

ありがとう!友情   上浮穴郡 中川 善子

 長男が松山東高3年の時に、交通事故死して、もう4年目を迎えようとしております。私たち肉親の者は亡き子を思って、涙の出ない日とてありませんが、もう4年も過ぎた現在、いまだに東高校の諸先生方、卒業生の皆さまが、この山奥のお墓にお参り下さり、名前も告げずにだまって、去って行かれるのでお礼の申しようもなく、お墓の途中の家々の方にお聞きして、あー、きょうもどなたかお参り下さったのかと、ただただ感涙にむせんでおります。

 ススキの花束や、野菊の花束があったり、リンゴにマジックでラグビーのボールが書かれてあったり、小石を並べて名前が石文字で書かれてあったり、いかにも学生さんらしく、親にとってどれほどなぐさめになるかわかりません。入院中もT病院始まって以来という生徒さんたちの徹夜の看病や声援があり、あの温かい友情がいまもなお4年間続いております。卒業まで3ヶ月間、息子の教室の机の上には、毎日お花と、大好きだったコーラをお供えして下さったとか。この情け厚い友情にただ涙するのみでございます。

 この人たちを教育された松山東高校の先生方に、あらためて敬意を表すとともに、進学校として、しのぎをけずっていると思われがちな東高校の生徒さんたちは、こんな優しい、いい方ばかりで、勉強ばかりが万能ではないと、あらためて教育の偉大さに頭の下がる思いがいたします。

 面河の自然の家に毎夏キャンプにいらっしゃる在校生の皆さまは真向かいの山に見えるお墓に黙とうをして下さると聞きました。殺伐としているこの世の中に、こんな温かい春風のような心の洗われる1つの場面もあることを知っていただき、お互いに私たちも出来る限りの愛情を、この世の中にそそいで、この東高校の先生方、生徒さんたちに続いて行きたいと願っております。息子はラガーとして、ボールを抱き、きょうも大空をかけめぐって、東高校のお友達、先生、ありがとうと声高く、さけんでいることでございましよう。私たちも心から感謝申し上げています。


●【関東明教第5号(平成16年)より】

松山東高ラグビー部の思い出      須之内 辰雄(昭和46年卒)  

平成16年1月19日、自宅に戻りメールチェックをすると、松山東高ラグビー部の後輩からのメールがあった。関東明教第5号でラグビー部特集を組むとのこと。原稿執筆の依頼である。気軽に引き受けた自分を呪いながら、今から30年以上前の我が松山東高ラグビー部時代の思い出を綴ってみる。

私は、昭和43年4月、松山東高に入学した。興味はあったものの小柄な私はとてもラグビーなんか無理と思っていたが、当時のラグビー部監督の高橋俊三先生に勧められ、最初はマネージャーとして入部した。同期のラグビー部員には、3年時に主将となった野本和男君、石崎 貴君、中川泰彦君、西原祥二君、多川 晶君、赤松民康君らがいた。

当時の部室は体育館の地下にあり、初めて入った時はその汚さと汗のしみこんだジャージの臭いに閉口(閉鼻?)したが、不思議なことにすぐに慣れてしまった。ちなみに、隣の部室は同じ県内強豪でありながら、その清潔感では対照的なダンス部であった。

マネージャーとして活動のかたわら、練習を見ているうちに自分もプレーをしたくなり、選手を目指して練習に励むことになった。しかし、最初はランパス(今でもこの言葉を使っているかどうか不明だが)だけでも他の部員について行くのが精一杯だった。おまけに、身体作りのためだと、砂を詰めた救命胴衣をつけて走らされたりしたので本当にきつかった。

当時の練習相手と言えば、県内ではもっぱら、愛媛大や松山商科大(現松山大)であった。県外では山口農高や大分舞鶴高と練習試合を行いチーム力の向上を図った。

松山東高ラグビー部時代の思い出としては、次の二つのことが最も心に残っている。

一つ目は何といっても昭和44年度の全国大会出場である。昭和45年1月1日、私は7番右フランカーとして近鉄花園ラグビー場に立った。試合の中で今でも鮮明に覚えているのは、1回戦の対戦相手(西陵商高)の大型左ウィングをタックル一発で倒したことである。タックルしたあと、倒された左ウィングの選手が「ナイスタックル!」と私に声をかけてくれたのが今でも耳に残っている。残念ながら、試合結果は6対10(前半3対0、後半3対10)で惜敗した。2日間ほど滞在して他の試合を観戦して帰るものと思っていたら、負けたチームはその日のうちに引き上げるという「不文律?」があるということで、元旦のその夜、関西汽船で松山に戻った。

もう一つは、同級生の中川泰彦君(通称、やっちゃん)のことである。昭和45年度全国大会の県予選、準決勝(対松山聖陵高戦)を快勝(3211)したあと、やっちゃんは自転車で下宿(実家は面河)に戻る途中、車にはねられて意識不明となった。翌日にそのことを知った我々は、授業を抜け出し病院に駆けつけた。面河からご両親も来られていたが、やっちゃんは一度も意識を回復することなく、事故から数日後に18歳の短い生涯を閉じた。次の日曜日に行われた決勝戦では、ジャージに喪章をつけて新田高との試合に臨んだが、2年連続の全国大会出場とはならなかった。やっちゃんはあの事故に遭っていなければ、大学でも大活躍したに違いない。

このように松山東高ラグビー部時代には、うれしかったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、といろいろあったが、今となってはどれも懐かしい思い出である。

 

●【愛媛ラグビー50年より】

 昭和45年,前年のメンバー中残ったのは野本(主将),石崎,西原,須之内,中川の5人に過ぎなかったが,よくチームを作り上げ,新人戦には決勝進出。四国高校ラグビー大会ではBブロック優勝。総合体育大会の11人制では新田高校と優勝を分け,全国高校ラグビー大会県予選では決勝に進出した。この県決勝を前にして,CTB中川泰彦君が交通事故に逢い,中川君危篤の報せに選手達は約1週間放課後,練習を中止して病院につめて看病し,ひたすら彼の回復を祈っていた。然し,皆の切なる願いも空しく,遂に中川君は逝った。試合当日,松山東高フィフティーンは喪章をつけて試合に臨んだ。試合前の大切な1週間を練習もしないまま戦った。それでも前半は0−6と健闘,然し,後半力尽き,0−28で敗れた。悲しい思い出である。この時のチームメイトは,今でも中川君の命日には墓参を続けているという。この年の新田高校は,岩手国体で準優勝,全国高校ラグビー大会でも2回戦に進み,名ウィング藤原を擁した日川高校に惜敗しており,全国レベルでみてもAクラスと思われるので,松山東高も全国に通用する実力を持っていたと思われる。

(昭和55年2月27日土居通弘)