『がんばっていきましょい』について

 

 

 

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生徒会誌青柳やOBの証言をもとに言葉のルーツを調べてみました

 

 

●「がんばっていきましょい」の変遷

 

1.はじめに

 

 平成1779月,フジTV系列でドラマ「がんばっていきまっしょい」が放送された。言うまでもなく敷村良子さん原作の小説「がんばっていきまっしょい」[第4回坊っちゃん文学賞大賞受賞:平成7年]がドラマ化されたものである。

 

 この「がんばっていきっましょい」という言葉の由来については,平成15年に創立125周年記念事業の一環として,同窓会及び教職員から寄贈された記念碑[写真1,2]に刻まれている。そこには,『この言葉は,昭和40年頃,高橋俊三教諭と共に集団走する生徒の中から互いを励ます掛け声として生まれた。やがてそれは「気合い入れ」となり清らかに熱く燃える「東高魂」の象徴となった』とある。高橋俊三教諭というと,当時のラグビー部監督である。この言葉は,ラグビー部の練習中や試合前にも盛んに叫ばれた言葉であり,ラグビー部にとっても思い入れの強い言葉である。

 

 ところで先日(平成1710),ラグビーマガジンの取材が学校であった。昭和40年卒業のラグビー部OB和泉武雄さんにフランカーの極意を聞く趣旨の取材であった。その際に記者から,『記念碑は「っ」が入らないんですね』と指摘された。『学校側は「っ」が入らないのを正式としているようなんですよ』と回答しておいたが,昭和57年卒の筆者にとっても,「っ」が入らない方が何となく馴染みがある。

 

 このような背景から,「がんばっていきましょい」という言葉の由来・変遷について調べてみた。

    

写真1 記念碑(遠景)           写真2 記念碑(近景)

 

2.由来・変遷

2.1 由来

 

 まず,生徒会誌「青柳」(昭和39年度創刊)を調べたところ,青柳第19(昭和57年度)に岡本孝利教頭の寄稿があった。まずは,その全文を以下に転載させていただく。

 

「頑張っていきまショイ!!」生いたちの記

 久し振りの授業や生徒との接触が懐かしく期待に胸をはずませてこの学校に赴任して来たのが昭和40年の春,37歳のときです。ホームルーム担当は17組。「縁あって,共に学ぶことになりました。お互いにラッキーセブンを大切にしよう。」と,挨拶したことを未だに忘れません。当時の松山東高は1学級50名,1学年12クラスで全校生徒1,800名のマンモス校でした。丁度隣の8組のクラス担任が高橋俊三先生でした。この高橋先生との出逢いが,頑張っていきまショイ!!を生み出した大きな要因です。私の前任は県教育委員会保健体育指導主事。丁度前年の秋の研究会で高橋先生が研究発表をしました。要旨は体育授業の毎時間に10分間の走運動を実施し,体力,気力を養うと言うことでした。素晴らしい計画だと賞賛の言葉を送ったことを記憶していますが,そんないきさつの中で翌春高橋先生と2人でホームルームも,保健体育もその年の1年生を担当することになりました。ときに高橋先生は30歳になったばかりであり,私はそれまで5年間運動していない上に,年令的ハンディーもあり,グランドでの活動には一抹の不安を感じていました。しかし,前年まで体育の先生方に偉そうなことを言っていたのですから,余りいい加減なことは許されません。前年の走運動の計画を早速実施に移しました。併行授業ですので2人で担当した授業は何時も同時開講です。集団の先頭に立って毎時間10分間の走運動はその時の私にとっては大変なことでした。が,高橋先生に負けたのでは自分の担当している生徒に申し訳ない,歯を食いしばり頑張り続けました。身体が慣れるまでは,疲れてしまって家に帰っても物も言わなかったと,未だに家内に言われます。

 

 集団走の真髄は,声をかけないで50人の足音が1つになってグラウンドにこだますることだと思います。67分経つと,持久力のある者とない者との差が出て足音も乱れがちになります。誰言うこともなく,頑張ろう!!という声が出て足音はまたもとの1つに帰ります。この「頑張ろう」は,私にとっても救いの声でした。高橋先生に負けないように頑張ろう,生徒に負けないように頑張ろう・・・・・・と。汗に濡れ,砂埃りにまみれ,歯を食いしばり,ひたすら走り続ける中で生徒達の様々な声が出てきました。頑張れ,頑張ろう,頑張って行こう・・・・・・そして,「頑張っていきまショイ!!」はその生徒達が3年生の時の,運動会で生まれたと記憶しています。その年は高校総体に高橋先生のラグビー,私のバスケットボールを含み,5種目を制覇しました。また,国立大合格者の記録を大巾に更新しました。「頑張っていきまショイ!!」は,文武両道を目指して,ただ走り続けた,この時の生徒達の合い言葉でした。

[岡本孝利,青柳第19号より引用]

 

 

 岡本先生の寄稿によれば,集団走の中から自然発生的に生まれたものとのことだ。そして,公式行事で使われるようになったのは,昭和42年の運動会ということになる。

 

 ちなみに体育授業中の集団走について高橋先生が,『当時(昭和36年頃)80分授業であったので体育授業は15分の集団持久走,10分間の東高体操および補強運動,50分の運動領域(年間計画にもとづく陸上競技,球技・・・等)5分間の整理運動が毎時間の配当であった。』と青柳第3(昭和41年度)に記述している。体育の授業時間がそれ程長かったのであれば,1015分間の持久走も取り入れることができたであろう。

 

 さらに,同窓会誌「明教」第34(2004)には,穐岡謙治教頭が下記のように記している。

 

『この言葉は,今年度の同窓会近畿支部総会に参加した際に,昭和433月卒業の上田健二氏から「2年生の時(昭和41),体育担当の高橋俊三先生(昭和3649年本校在職)から準備運動のかけ足の際のかけ声を考えろと言われた。いろいろ提案した中からこの言葉に落ち着き,自分がかけ声として発した。やがてこの言葉は,順次他のクラスでもかけ声として発せられるようになった。なお,最初に全校生徒の前でこの言葉を大声で発したのは,当時の野球部主将の大伴隆夫君であった。」ということをうかがいました。』

 

 以上の両教頭の寄稿や後述するOBの証言から,言葉が生まれたのは昭和41年であり,体育授業中の集団走において,高橋先生の指示により,生徒が考え出したものということで間違いないであろう。

 

 

2.2 変遷

 

 次に,「青柳」に登場する「がんばっていきましょい」の表記をピックアップしてみた。これを1にまとめる。しらみつぶしに調査した訳ではないので,漏れがあることはご容赦願いたい。

 

 表1で注目すべきことは,昭和4145年度において,「いきましょう」ないし「いきましょー」という表記が目立つことである。どうやら初期の頃は,「いきましょう」と叫んでいたようである。そこで,昭和43年卒業のOBに聞いてみた。その方によると,『高橋先生が授業の中で「何か元気で,みんなを鼓舞するような掛け声はないか」と言い出した。当初は「いけいけ」だとか「頑張れ頑張れ」,「Lets Go」などといろいろと言っていたのが,誰からとなく「頑張っていこう」がいいということになり,それがいつしか「がんばっていきましょう」に変化した。』ということである。やはり初期は「がんばっていきましょう」と叫ばれていたのだ。

 

青柳第3(昭和41年度)の運動会欄には『「ガンバッテイキマショウ。」大伴君の大声にひときわ高い笑い声。』との記載がある。この記述が正しいとすると,岡本先生の寄稿と矛盾する。昭和41年の運動会ですでに叫ばれていたこととなる。しかし,『ひときわ高い笑い声』とあるので,「ショウ」という合の手が返ったかどうかは疑問である。そこでこれも先のOBに聞いたところ,『あの言葉が定着したのは,昭和42年の運動会以降と記憶している。この年から採用された棒体操の冒頭に,大伴が台の上から「がんばっていきましょう」という掛け声をかけ,その後演技が開始されたのだ。』とのこと。さらには,『その棒体操が大変勇壮で好評を博したことから,高橋先生が「おまえらよかったぞ」と,涙ぐみながら褒めてくださった記憶がある。』という。昭和41年度の運動会においても大伴さんにより叫ばれたのであろうが,学校行事での発声として広く認知されたのは昭和42年度の運動会の棒体操ということである。蛇足ながらこの『大伴君』,昭和41年当時は2年生。3年生時は野球部主将で青柳グループ長。さらに高3年の時には,フィギュアスケートで国体出場の経歴を持つ多芸な方だ。

 

 「いきましょい」という記述は,昭和45年度に初めて登場する。当初,実際の発声は,「いきましょう」と「いきましょい」の中間のような感じだったのかもしれない。前出のOBは,『おチャラかして「しょい,しょい」ということも多々あった。』と言う。「しょう」「しょい」両方が使われていたのであろう。それが昭和45年頃までには徐々に「しょい」に収斂されたものと考える。『「しょう」とノーマルに発声したのではつまらない。ちょっとひねって「しょい」といった方が面白いじゃないか。』ということで「しょい」が優勢になったのかもしれない。東高生ならさもありなんである。その後は,ほぼこの「いきましょい」が使われていたところ,昭和52年度に「いきまっしょい」という表記が初登場する。敷村良子さんが高校1年生の時のことであり,興味深い。

 

 次に,表記を「いきましょう」「いきましょい」「いきまっしょい」「その他」の4つに分類して数をカウントしてみた(2)。それをグラフにしたのが図1である。1960年代は「いきましょう」,19701980年代は「いきましょい」,1995年以降「いきまっしょい」が優勢であることがわかる。特に1998年の映画化(主演:田中麗奈)以降は「いきまっしょい」の優勢が顕著である。2005年にはテレビドラマ化されたこともあり,今後もこの傾向は続くものと思われる。

 

 

 

 1に戻ろう。校長先生や教頭先生も「がんばっていきましょい」を用いて寄稿を寄せている。5件見つけることができたが,全て「いきましょい」という表記を用いている。このあたりが,記念碑の表記に「っ」が入らなかった理由であろう。学校が「いきましょい」を採用しているのは,昭和53年に創立100周年記念刊行物として,「がんばっていきましょい 松山東高の四季」という書籍が当時の校長松岡覚先生による監修で発刊されたことが大きな理由ではないかと筆者は考える。

 

 面白い表記としては,『「ひっがしこおおお が――っていきやっしょおっっ」ときこえるのはわたしだけではないはずだ。』と書いている生徒がいた。確かに,叫び方,聞き方によって様々に聞こえるであろう。「いきましょい」も正であり,「いきまっしょい」も正なのだ。そうしたかけ声の表記の問題よりも,ひとつの言葉が世代を超えて高校生達に使われ続けていることが素晴らしい。

   

2.3 まとめ

 

 以上の事実関係を整理すると,『がんばっていきましょい』の由来・変遷を以下のように整理することができる。

 

  @昭和41(1966)に高橋先生・岡本先生指導の集団走の中で, 高橋先生の指示により,生徒が『がんばっていきましょう』というかけ声を考え出した。

  A公式行事としては,昭和41(1966)の運動会で大伴さんにより,『がんばっていきましょう』と叫ばれたようである。

  B広く認知され定着したのは,昭和42(1967)の運動会である。棒体操演技開始前に青柳グループ長の大伴さんが壇上から叫んだものである。

  C当初は『いきましょう』と発声していたが,おちゃらけから発生したのではないかと推察される『いきましょい』も使われはじめ,昭和45(1970)以降は『いきましょい』と叫ばれることが多くなる。

  D1970年代,1980年代はこの『いきましょい』が多く用いられた。

  E昭和52(1977)に『いきまっしょい』という表記が「青柳」に初登場する。

  F1990年代初頭には,『いきましょい』と『いきまっしょい』が拮抗するようになった。

  G平成7(1995)に敷村良子さんの小説『がんばっていきまっしょい』が第4回坊っちゃん文学賞大賞を受賞する。

H平成10(1998)には小説が映画化され,この頃から,『いきまっしょい』が優勢となる。

  I平成15(2003)には,記念碑『がんばっていきましょい』が設置された。これより学校としては,「いきましょい」を正式な表記としているのではないかと推察される。

  J平成17(2005)には,TVドラマ「がんばっていきまっしょい」が放送される。この影響もあり,今後は「いきまっしょい」が多く使われていくのではないかと思われる。

 

 

3.ラグビー部と「がんばっていきましょい」  

 

 ラグビー部監督の高橋先生が言葉の生いたちに係わっていることもあり,ラグビー部にとってもこの言葉には深い思い入れがある。

 

 青柳第9(昭和47年度)のラグビー部欄には,『練習中はみんな真剣である。私語などは聞かれない。しかし「がんばっていきましょう。」というかけ声のもとに部員たちは苦しい練習を共にのりきっている。よってラグビー部に「がんばっていきましょう。」というかけ声は貴重である。』とある。

 

 また,青柳第14(昭和52年度)のラグビー部紹介欄は『ガッテンショイ!』という言葉で最後を締めくくっている。第15(昭和53年度)のラグビー部紹介欄では,『「がってんしょい!」このかけ声こそ,我らの,形なき部の象徴であり,そして,体力の限界を超える心身鍛錬に耐えうる気力の発端である。これは単に「がんばっていきしょい!」という東校のかけ声が短縮されただけのものかもしれないが,我々は,この言葉とともに練習に励み,そして,この言葉で自分の精神的挫折との葛藤に勝利をおさめてきたのである。』との記載がある。

 

昭和40年代は,練習中に『がんばっていきましょう(しょい)』と叫んでいたと思われるが,徐々に短縮され,昭和50年代には『がってんしょい』となったものと考えられる。昭和50年代の部員にとっては,練習中に気力を奮い起こすために掛け合った言葉である。しかしいつしか使われなくなり現在に至っている。平成10年頃,平岡監督が復活を試みたが,今の高校生の気質に合わなかったのか,定着しなかった。

 

 練習中では消えてしまった『がんばっていきましょい』であるが,いつの頃からか,試合前のかけ声として使われるようになった。円陣を組んで,キャプテンの発声の下,気合いを入れて試合に臨むのである[写真3,4]。ラグビー部ホームページ(http://merfc.chu.jp/)にも動画をアップしてあるので一度ご覧いただきたい。少々長くない?と思う時もなきにしもあらずではあるが,青春を呼び起こしてくれるなかなかのものである。なお昭和50年代の試合前のかけ声は『気合入れ!』であったように記憶している。いつから『がんばっていきましょい』に取って代わったかについては,「青柳」ではわからなかった。聞き取り調査にならざるをえないが,まだ調査は行っていない。

 

 蛇足ではあるが,大阪体育大学ラグビー部では,「がんばっていきましょーっ!,元気出して行きましょーっ!」と声を出して走っていたそうである。京都の鴨沂高校は,「気合い入れっ! ヨーっ,ヨーっ,ヨーっ」と叫んでいたとか。どこのチームも似たような掛け声をかけていたということだ。

 

写真3 ひがしこぉ――がん

    ばっていきまっしょぉ

写真4 ぉぉぉぉ――いっ!!

 

4.おわりに

 

 今回,調査するにあたって生徒会誌「青柳」は大変参考になった。国立国会図書館に行って調べたり(国会図書館の蔵書にあるんです!!),生徒会室に篭って関係するページをピックアップしたりした。「青柳」には,「青柳なんて何人の人が読むのだろう」なんていう記述も散見されるが,何の何の,校史を記す貴重な資料である。特に,平成11年度以降,松山東高新聞の発行が途絶えている現在(新聞部が廃部状態),青柳の存在は大変ありがたい。歴代青柳編集委員の方々に感謝申し上げる。

 

 青柳,紫雲,紅樹,黒潮,この4つのグループ分けがなされ現在の形の運動会となったのが昭和34年のこと。昭和41年に東高体操が,昭和42年に棒体操が運動会のプログラムに組み込まれた。『がんばっていきましょい』の言葉が生まれたのも丁度この頃のことである。その後,表記は「いきましょう」「いきましょい」「いきまっしょい」と変ってきているものの,東高生の根源に流れる気質に変りはない。世代が移り親から子の時代になっても,昔と変らず自主自律の精神の下,運動会もクラブ活動も勉学も,生徒自らの力により成し遂げられている。「それが東高さ」とさらりと言ってしまえばそれまでである。しかしその背景には,連綿と流れる東高魂とそれを鼓舞する『がんばっていきましょい』がある。『がんばっていきましょい』は,現役の東高生には漲るパワーと一体感を,OBにはノスタルジーと母校の誇りを与えてくれる特別な言葉なのである。

 

 

【追記】

青柳や明教の中には,「新入生が初めてこの掛け声に接するのは入学式」とする記述がいくつ見受けられる。しかし,実際厳密にいうと始業式(対面式)でのことだと思う。入学式は1年生のみで行なわれ,全校生徒がそろうのは入学式の翌日に行なわれる始業式であり対面式であるからだ。小説「がんばっていきまっしょい」では入学式翌日の始業式でこの掛け声に接する設定になっている。さらに,「がんばっていきましょい。松山東高の四季」や明教第7号岩崎校長の寄稿ではこのあたりが正確に記されている。対面式も広い意味では入学式の一連のものと考えることもできるだろう。また入学式と言っちゃった方が,対面式とは何かを説明する不要な手間も省けすっきりしていいであろう。なので「入学式」が間違いだと目くじらを立てるつもりはないが,理系人間の性分ゆえか,事実は事実として整理しておきたい。

さらに蛇足ながら,「がんばっていきましょい。松山東高の四季」にはこんな記述もある。「東高がんばっていきましょい,にはびっくりしたが,それよりも驚いたのは,校歌の合唱でした。急にうしろからブラスバンドの音が聞こえてくると,校歌の合唱が始まりました。」「次の行動の指示がなくても,スムーズに式が進む。校歌斉唱と言わなくても校歌がはじまったのはその1つだ。」 そう,始業式の一連の次第が終わると間髪を入れずブラスバンドの校歌序奏が威勢よく始まるのだ。この気持ちは私もよくわかる。先日,2005年度の終業式を覗いてみたら,先生の「校歌斉唱」という号令の後にブラスの演奏が始まり校歌斉唱へと移っていった。OBとしては何となく物悲しさを感じてしまった。

 

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