「楕円のボールで遊んだころ」(戦後のラグビー部秘話) 

 

 鴨川 信正 (昭和25年卒)

[同窓会誌「明教」第35号より転載]

平成164月,私は松山東高・ラグビー部の栗林誠監督(昭和57年卒)から「松山中学・松山東高ラグビー部」というOB会の「会誌」をご送付いただいた。また,その前の15年暮れには,松崎伸一という同じ57年卒の人からも,正月に松山でおこなう「OB会」のご案内をいただいた。

私は東高3年生のときラグビー部のマネージャーをしたが,選手だったわけではなく,ただ選手諸君と練習や試合のとき一緒にいただけである。だからOBなどといえる柄ではないが,どうしたことか,いまはOBの一人になっているらしい。

 ただ私がかつて同部のマネージャーをしたのは,ラグビーというスポーツが私の性格に合っていたからである。球技と格闘技を混合したこのスポーツは「チームプレーとフェアプレー」をとくに重視する。私は生来,その反対のことや人間は嫌いなのである。

 そしてこの「明教誌」だが,私は有力OBの誰かが,ラグビー部の話を書くだろう,と毎号期待していた。しかしまだそんな記事は出てこないので,今回,以下に私と同じ時代に活躍した4人の選手(芳野規・尾崎政雄・中野隆司・白石圭一)の秘話を記し,「松中東高・ラグビー部史の一端にしたい」と,寄稿したしだいである。

 

故 芳野 規 (昭和22年卒,62年逝去)

 私より2年上級の芳野規さんは,まれに見るすぐれた素質の選手だった。私は戦前,後楽園球場でプロ野球の沢村栄治という巨人軍の名投手を見たが,芳野さんはその沢村投手とよく似たすばらしい体躯(手足が長く均整もとれている)の人だった。

 戦後すぐの昭和21年度は軍隊帰りの名選手がたくさんおり,四国代表として西宮の全国大会に出場したが,バックス(BK)はこの芳野規さん(スタンド・オフ)と大野健吉さん(センター),フォワード(FW)は高橋公夫さん(主将)が中心選手だった。

芳野さんは松中から松山経専に進み,旧制で卒業すると八幡製鉄(現・新日鉄)に入社した。当時の八幡製鉄は最難関の就職先で,芳野さんはそのラグビー技量を認められたのだが,私は,

「さすがに八幡は,いい選手を見つけるのが,うまいなあ!」

と感心した。そして昭和25年のラグビー・シーズンに,すぐ芳野さんは八幡の新人CTB(センタースリークォーターバック)として社会人ラグビー界にデビューしたのである。

ただ,八幡のBKはみんな大学出の有名選手ばかりだから,専門学校出の芳野さんには迷いがあった。そして翌26年春,八幡は在籍わずか1年で退社し,早稲田大学の編入試験を受けた。

試験に合格した芳野さんが,早大ラグビー部に入るため松山駅を発ったのは,26年の春まだ浅い3月の半ばだった。もう早稲田の角帽をかぶりダスターコートを着た芳野さんが国鉄松山駅にいくと,見送り人が二人,駅の正面に立っていた。松中昭和14年卒の先輩・土居通弘さんと大西五郎さんである。

土居さんは松山経専のOBでもあり芳野さんの直系の先輩だが,大西さんは法政大学に進んだ人である。郷土松山の天才選手が勇躍上京する晴れ姿を,東都のラグビー界で活躍した大西先輩も,この朝わざわざ駅頭まで出向き,熱い期待を込めて見送ったのである。

なお,この大西五郎さんは伊予都岡田村(現・ 松前町 )の人で,私の同期生・故岩本啓造君の叔父さん(岩本君の母上は大西さんの姉,つまり大西さんは岩本君のお母さんの弟)である。

また,芳野さんが旅立ったこの日,偶然だが私も芳野さんと同じ列車で東京まで行った。このとき私は愛媛大学の2年生で,前の年に東大の学生だった兄が結核に罹って入院し,母が兄の看病に上京していたので,私も春休みを利用して家族に会うべく上京したのである。芳野さんと私は高松まで同じ車両だったので,私が遠方から目礼すると,芳野さんも私を覚えていたらしく,ニッコリ微笑んでいた。ただ岡山駅で乗り換えた広島始発の東京行き急行(安芸号)は超満員で,夜半に大阪を通過するまで二人は通路に立っていた。大阪でいくつか座席が空いたので,どうにか別々に座って東京まで眠ることができたが,翌朝東京駅に着いたときは,もう挨拶をする間もなく別れてしまった。芳野さんとの懐かしい旅の話である。

さて,郷土の期待も背負ってワセダに入った芳野さんだが,このとき早大ラグビー部のBKは,すでに私と同じ年代(芳野さんより下級生)が正選手に定着しており,これは芳野さんにとって不運であった。正選手が卒業する前に,自分が卒業してしまうのである。

そんなことで芳野さんは,ワセダではレギュラー選手になることなく,2年後の昭和28年に卒業した。

このあと5年ぐらい経ってから,私は日本橋の通りで芳野さんとすれ違ったが,もうたがいに社会人になっていて,話をすることもなく別れてしまった。そしてこれが,私の芳野さんに会った最後の日になった。

思えば,天才ラガー芳野さんの晴れ舞台は,八幡製鉄でのわずか1年だけであった。私は当時の早大BKを何回か見たが,アタックは芳野さんの方が上だったと思う。天は無常というべきか? もしワセダに行かなかったら,どうであったろうか?

 

尾崎 政雄 (昭和30年卒)

前記の芳野先輩とよく似た経歴で,しかし結果は反対の人に尾崎政雄という昭和30年卒の選手がいる。この人は私より5年後輩だが,東高時代はキャプテンを務め,すでに高校時代から大物の萌芽があった人らしい。

私がこの尾崎選手を初めて見たのは,東京の秩父宮ラグビー場でだった。私は昭和28年の暮れに8年の疎開生活を終えて東京に戻ったが,以後は松山で覚えたラグビーのマニアになり,完成したばかりの秩父宮ラグビー場によく出かけた。土手に材木をならべたようなスタンドはいつもガラガラで,見ている人は,出場チームの関係者か私のようなマニアだけだった。

そして私は,早稲田のチームに尾崎という新人選手がおり,出身高校が松山東であるのをメンバー表で知った。

この人は色浅黒くスリムな身体つきで,いまアメリカにタイガーウッズというプロゴルファーがいるが,彼はこのゴルファーを小柄にしたような若者だった。

そして彼は運動能力(走力・スタミナ)が抜群だったから,早大の首脳陣が彼をFW3列(フランカー)に抜擢したのは,素人の私でもうなづける起用だった。

昔のラグビーはスクラムから味方ボールが出ると,フランカーはBKの背後を追走し,ライン攻撃が詰まるとフランカーがボールを受ける。しかしそこまで走力とスタミナのあるフランカーはあまりいない。早大のウイングがタッチラインの手前で立ち往生しているとき,突如,背後から尾崎選手が迫ってきてパスを受け,そのままゴールに直進する場面を,私は何回も見た。

そんなことで彼はすぐワセダのレギュラーになり,卒業後は芳野さんと同じ八幡製鉄に入社したのである。そして彼は何回か全日本の代表選手に選ばれ,公式の国際試合にも出場する一流選手に成長した。だからこの人は,いま松山東が生んだ最高の選手である。

 冒頭に記したOB会誌には尾崎氏の対談記事が載っており,添付された写真を見ると,その精悍な容姿は昔以上のような気もする。

私は昔,この人が八幡製鉄のキャプテンをしていたとき,試合のあとでテレビ局のインタビューを受けている姿を見たが,彼の上品な言葉づかいにちょっと驚いた。松山のラガーでも,八幡に入ると「こんなに洗練されるのか」と嬉しい気持ちでテレビを見つめた。

いまOB会の会長を選ぶなら,この尾崎氏が知名度・実績ともに1番である。

 

中野 隆司 (昭和25年卒)

 つぎは私の同期生の登場である。中野君の兄上(昭和20年卒,節夫氏)は松中から農専(現・愛媛大学農学部)に進み,戦後同校の黄金時代を築いた主力選手の一人(スクラムハーフ)だった。

弟の隆司君も兄さんとよく似た体格で,小柄だが横幅は広く運動神経も抜群だった。そして,彼は同期部員のなかで最初に正選手になった。昭和21年の秋,松山中学3年生のときである。

 当時,松中のスクラムハーフは中野節夫選手が20年に卒業したあと,山本卓(昭和21年−経専)という選手がいたが,この人が21年春に抜けたあとの人材が払底していた。そこで節夫選手の弟の隆司君が目をつけられ,入部を勧誘されたようである。

小柄で最下級生の中野君が,大男の上級生集団(FW)の後尾に付いて懸命に走っていく姿は,最初やや痛々しい感じがしないでもなかった。ただ,私は後年これと同じ光景を見たことがある。私の家の近所に明治大学のグランドがあり,若いときはその練習をよく眺めにいったが,そのころ松尾雄治(目黒高校−明大−新日鉄釜石−ラグビー日本一に何回も輝いた)が目黒高校から入学したばかりで,中野君とまったく同じ姿(当時の松尾選手はハーフ)だったのである。前記の尾崎選手もそうだが,将来性のあるルーキーはすぐ起用される。

なお,中野兄弟の中間にいた山本卓選手は,松山経専を卒業したあと静岡の国体に「オール愛媛」のハーフとして出場したが,その試合で頚椎を骨折し死亡してしまった。山本選手は山本信隆(大正6年,松中卒)という松中同窓会長をしたこともある人(元伊予鉄会長)の子息で,私の父は信隆さんと松中同期で親しかったから,当時この事故を知り驚いていた。

 選手の死亡事故はもう1件ある。我々より1年上の坂本士郎選手(FW)も四国決勝戦の試合中,心臓強打(心停止)で死亡した。

この試合は私も観戦していたが,対戦相手の徳島県代表 脇町 中学は強力なFW陣を前面に押し立て,松山中学は終始苦戦していた。そんな中での右プロップ(3番)坂本選手の退場であり,とりわけ強烈な印象になった。また山本卓さんには練習試合のレフェリーをしてもらったことがあり,甲高い声で丁寧な言葉づかいは,いまも私の耳に残っている(このとき私はタッチジャッジをした)。

これは10年ぐらい後の話だが,私が勤めていた企業のグループは戦前「安田保善社」という母体があり,それが保善商業(現・保善高校)という私立学校も経営していた。その保善高校の当時の校長は有名なラグビー狂で,やがて伊藤,水谷という全日本の代表選手(二人とも保善高校−法政大学−リコー)を出したが,私の会社はこの学校と取引があった。それであるとき,私は校長に松山の死亡事故の話をしたところ,

「ああ,あれは四国の決勝戦と,静岡の国体だね!」

と即座に返答があり,私はすこし驚いた。松山はこの事故も有名らしい。

さて若くしてレギュラーになった中野隆司選手は,そのあと3年以上多数の試合に出場したが,ハーフというポジションはスクラム周辺のFW戦に巻き込まれることもあり,徐々に身体の故障が出てくるようになった。彼は冷静寡黙な人柄で実際を語らなかったが,高3のころは練習もむずかしい体調であった。にもかかわらず彼は大事な試合はすべて出場した。そして高校卒業後は令兄と同じ愛媛大学農学部に進み,技術者となって現在は徳島県に在住している。

つぎに記載する白石圭一君も同じだが,われわれ同期生のホープだった中野・白石の両選手が,ともに故障に苦しみ早めに選手生活を終えたのは,惜しいかぎりである。

 

故 白石 圭一 (昭和25年卒,平成8年逝去)

同期の中野隆司君が正選手になったあと,つぎにレギュラーの座を占めたのは白石圭一君(通称・圭やん)だった。松山中学4年生のときである。

このとき私は彼と同じクラスで,あれはたしか梅雨のころだったと思うが,月曜日の正午前,彼が前日の高知での遠征試合から戻り教室に出てきた。このとき彼はウイングの選手で出場し,わが校は凱歌を挙げていた。教室の級友と教師も彼を拍手で迎えたが,このとき彼は嬉しそうな顔をしながらも,左手を胸に当てて動かさないのが,私は気になった。

彼は前日の試合で左の鎖骨を骨折していたのである。鎖骨は縦の打撃には強いが,横の衝撃には弱いそうで,彼はノーサイド(試合終了)の寸前にマーク(対面選手)のタックルを受け,左の肩からグランドに落下したそうだ。

このあと,彼は同じ左鎖骨を何回も骨折することになる。折れた骨はしっかり固まるが,その部分に周囲の成分がうばわれるのか,折れた箇所のすぐ横がまた折れるのである。 

彼は長身快速でパスワークもうまく,高校ではセンターに移って同期の北野収祐君とコンビを組んだが,この両センターはわが校が誇る自慢の得点源だったのである。

ただ,彼の父親は怪我が絶えない息子の身体を心配し,

「もう,ラグビーはやめろ!」と言いだした。このため彼は親父に内緒で練習に参加していたが,それも,やがて限界がきた。

なお,終戦後まだ数年のこの時代は「ラグビーは危険」と思う人が多く,家族に隠して試合に出る選手がいた。とくに陸上競技部や野球部からウイングに起用した生徒はみんな同じだった。たとえば1年上の原選手(陸上・短距離)は愛媛新聞に載る選手名を原田と変えた。また同期の金井選手(野球・外野手)は試合の日,近所にいく素振りをして家を出たので,昼食の弁当は持ってこなかった。だから彼の昼食はマネージャーの私が調達した。

さて白石選手だが,私はシーズン目前の昭和249月上旬,城北にあった白石君の家を訪ねて彼のお父さんに面会した。私は,

「今年のチームは,白石選手なしでは試合にならない。ぜひ圭一君の全国大会予選試合への出場を,許可して欲しい」

と懇請したのである。父上はしばらく黙っていたが,やがて,

「君の熱意とラグビー部のチーム事情は分かった。私は現在も息子の選手生活には反対だが,全国大会予選への息子の出場は,圭一の判断に任せることにしよう」

と言われた。これで白石選手の試合出場が決まったのである。

さて全国大会の四国地区予選は,決勝戦で徳島県代表の鳴門高校に1トライ差で惜敗したが,敗戦決定のノーサイドの笛が鳴ると,白石選手はグランドに倒れこんで号泣していた。 この試合,鳴門はSO(スタンドオフ)のタッチキックで前進を図る戦法だったが,わが校のSOもこれに対抗して味方ボールをぜんぶ蹴ってしまい,北野,白石,金井の快速TBラインを生かせなかったのである。

昭和25年の正月ごろ,私はバラック校舎のラグビー部室で,白石君とこんな話を交わした。

「圭やんは,東京の大学を受けるらしいが,どこを受けるの?」

「明治大学を受ける」

「おお,それならラグビーをやれよ。明治は強いぞ!」

「ああ,そのつもりジャ!」

しかし彼は早稲田の理工学部に合格し,明治には行かなかった。

また父上との関係で彼がラグビーを続けるなど,もうありえないことだった。あの城北練兵場の跡にできたラグビー場の芝に流した彼の涙は,「ラグビーヘの訣別の涙」,だったのかも知れない。

 

 

私のこの拙文は表題を『楕円のボールで遊んだころ』としたが,選手諸君にとっては,『楕円のボールに賭けた青春』,であったに違いない。最後に選手諸君の氏名を記載する。また故人が累増したいまごろになって選手諸君の記事を出すのは,マネージャーとして遅きに失した気もするが,それはともかく,苦しかったあの時代を楽しませてくれた選手諸君に,私も感謝のひと言をつけ加えたい。

「みんな,ありがとう!」

 

FW)田中友雄,沢田仁三郎,伊賀上克明(主将),関谷諄,亀岡純夫,故小原修,故武知昌昭,

HB)中野隆司,

TB)故北野収祐,故白石圭一,金井満盛,故家木哲,

 

(おわり)