愛媛ラグビー元年は昭和6年とされている。生みの親は二宮晋二。大正12年に松山中学を4年修了した二宮は、三高→京都大と進みラグビーと出会う。京大在学時の昭和2・3年度には全国制覇を成し遂げ、全日本初の海外遠征(昭和5年・カナダ)のメンバーにも選ばれた名選手である。しかし病気で止む無く遠征を辞退。静養のため松山に戻ってきた。しかし二宮のラグビーに対する情熱は冷めやらない。二宮を中心に『松山でもラグビーしよう』という機運が高まった。そして親友藤井謙三が奉職していた母校松中にラグビー部を立ち上げたのである。昭和6年初冬のことだ。同じ頃、松高および松山OBクラブでも活動が始まった。そして年が明けて早々の昭和7年2月11日、県内初の公式戦が挙行された。松中は松高Bと対戦し0対3で敗れた。しかし3月には第2戦を行い、松山OB相手に15対3で初勝利をあげる。
昭和7年春には県下で初めて正式にラグビー部を創部。全国大会出場を目指す。昭和7・8年と県大会で愛媛師範を破り四国大会へ進んだが、全国大会出場はならなかった。特に、昭和4年創部の脇町中を始めとする徳島県勢は大きな壁であった。しかし、愛媛県勢として7度目の挑戦となる昭和13年度、細田虔を主将とする細田組はついにその壁を破った。愛媛で初めての全国大会出場を勝ち取ったのだ。第21回全国大会は南甲子園で開催された。しかしくじ運悪く、初戦で準優勝した秋田工と対戦。残念ながら0対49で敗れてしまう。翌昭和14年度も全国大会に連続出場を果たすが、北野中に0対17で敗れる。その後、第二次世界大戦による空白の期間を挟んで、戦後は県内のどこよりも早くチームを復興させて、第26回全国大会に3度目の出場をする。しかしこの時も準優勝した神戸二中と初戦で対戦。3対14で惜敗した。
昭和22年には新田にラグビー部が創設される。このあたりから県内の勢力図は徐々に塗り替えられていく。松中は、昭和24年、学制改革により松山商と統合され松山東高となった。しかし、昭和27年には松山商が独立。当時ラグビー部には普通科の生徒が少なく、東高ラグビー部は存続の危機を迎える。この危機を救ったのは三輪田綱丸(昭和29卒)である。三輪田は熱心な勧誘で部員を確保するともに、二宮晋二が昭和20年に逝去したため監督・コーチのいない中、自ら部員を指導して部の復興に力を注いだ。三輪田の尽力がなければラグビー部の歴史に空白の時代が生じていたかもしれない。それとこの時代に忘れてはならない人が、部長の稲川武男だ。今と違ってまだ大らかな時代、やんちゃな生徒が多く、問題を起こすことも多かった。そんな生徒達を陰になり日向になり支え続けたのが稲川である。奥深い愛情を持った稲川の指導には頭が下がる思いだ。
学制改革による部存続の危機を乗り切り、昭和29年には総体で初優勝を遂げる。昭和30年前後には、全国大会県予選決勝まで進出すること4度。しかしあと一歩の壁を破ることができなかった。その後、昭和30年代半ば以降は徐々に力が衰えていく。3年生の中に受験勉強のために退部する者が現れだしたのもこの頃である。
そうした衰退期にあった東高に高橋俊三が赴任する。昭和36年のことだ。俊三はラグビー部のみならず東高生の気質に大きな影響を与えた。俊三らが生み出した「がんばっていきましょい」の言葉は、40年の時を経た今でも、清らかに燃える東高魂の象徴となっている。俊三は古豪復活に情熱を捧げた。その熱血指導により徐々に力を取り戻した東高は、昭和39年坂本杯に準優勝する。以降、昭和40年代は新田・東高の二強時代を築き上げる。昭和41〜50年の10年間において、四国大会Bブロックで8度優勝していることは特筆すべきことであろう。しかし新田の壁は厚かった。昭和30年代後半から40年代前半にかけて、全国大会でベスト4進出が2回、ベスト8が2回の全国的強豪となっていたのである。昭和38・39年以降、3年生が総体で引退する傾向が定着してしまったこともある。しかし昭和44年度、ついにその壁を破り岡部組が全国大会出場(4度目)を果たす。実に23年ぶりのことであった。岡部組はFWの平均体重が73kgという当時では大型チームであった。花園ラグビー場で開催された全国大会では西陵商と対戦し、6対10で惜しくも敗れ、悲願の1勝はならなかった。
昭和40年代後半は、大学受験のため総体で退部する生徒が多く、新人戦や四国大会では好成績を残すが、全国大会予選では決勝に進むこともなくなってしまう。この間、昭和49年には高橋俊三が松山西高に去り、新しく井手盛章(昭和43卒)が監督に就任する。東高で俊三の指導を受けた井手も俊三と同じく情熱的な指導を行った。昭和50年の仙波組は、新人戦、四国大会Bブロック、総体で優勝を遂げる。3年生がそのまま続けたら花園も決して夢ではなかったであろう。しかし、やはり多くの3年生が総体で引退してしまい、夢は叶わなかった。
昭和50年代前半は再びやや力が衰え、四国大会でも優勝できなくなってしまう。わずかに昭和56年にBブロックで優勝しているのみである。しかしながら、この時期の新田は向井省吾や栗原誠治といった後の日本代表や、高校代表(栗原以外に村上、亀岡、河野、渡部)を輩出した時代である。当時の東高はその新田と幾度となく接戦を演じており、相応の実力を保持していたことが伺える。
昭和50年代半ば以降は極端に力が低下してしまう。春の大会でも県決勝に残ることが少なくなってしまう。その低迷期に監督に就任したのが三輪田元敬(昭和36卒)である。昭和62年に母校に赴任した三輪田は、すぐさま昭和63年に初の四国大会Aブロック優勝を勝ち取る。さらには、東高生の特徴を活かした戦術を思案しFWのモールプレーを徹底的に鍛えあげた。そして平成3年には新居久直という優れたスキッパーを有したこともあり、新人戦、四国大会Aブロック、総体で優勝する。新人戦、総体での優勝は、仙波組以来16年ぶりのことであった。このチームなら花園出場も不可能ではなかったと思われるが、残念ながら新居組もまた、秋の大会まで残った3年生は3人。全国大会出場はならなかった。ちなみに、三輪田元敬は前出の三輪田綱丸の実弟である。
平成4年以降、東高は再び長期に渡って低迷してしまう。部員が15名しかおらず、新人戦の出場も危うかった時代も経験する。その長期低迷に復活の兆しが見え始めたのは、平成13年のことである。新人戦で久々に決勝へ進出したのである。そして翌年。平成10年から始まった7人制四国大会で高松組が新田を破って優勝を遂げる。前年までであったらジャパンセブンズ出場権を得られたのであるが、この年から大会方式が変ってしまい、久方ぶりの全国大会出場がならなかったのは残念であった。さらに高松組は四国大会Bブロックで21年ぶりに優勝する。Bでの優勝は、監督の栗林誠(昭和57卒)が選手として優勝して以来のことであった。翌平成15年の万代組は、個々の力量では高松組よりも劣ると見られた。しかし、万代の傑出したキャプテンシーとチームワークで好チームに仕上がった。見事12年ぶりの四国大会Aブロック優勝と総体優勝を勝ち取ったのである。
次に、個々の選手に目を転じよう。松中・東高が輩出した名選手というと、何と言っても尾崎政雄(昭和30卒)であろう。早稲田大・八幡製鉄でバックローとして活躍した尾崎は、日本代表の経歴も持つ(CAP2)。和泉武雄(昭和40卒)も優れたプレーヤーだった。早稲田大でフランカーとして活躍し大学選手権で優勝している。大学卒業後は東海大で監督も務めた。この2人以外にも、大西辰居(昭和9卒、慶応)や岡部憲治(昭和45卒、同志社)など、名前を挙げるべき選手が多いが、誌面の都合上、別の機会に譲りたい。
別表に戦績をまとめた。各大会の優勝回数は、新人戦8回、四国大会AB併せて13回、総体7回であるのに対して、全国大会出場は4回と少ない。これは受験競争の激化が大きく影響していることは否定できない。花園を取るか受験を取るか、現役の葛藤は大きいことと思う。しかしOBとしては、東高が再び全国大会に出場し活躍することを願っている。そのために、現役・OB・父兄とが一体となった体制を整えたい。そして、映画『ハリー・ポッターと賢者の石』に出てくるグリフィンドールの面々ように、臙脂と黄色のマフラーを巻いて花園ラグビー場で応援したいものだ。
(敬称略)
参考文献
愛媛ラグビー五十年(愛媛県ラグビーフットボール協会)
松商ラグビー四十年(松商ラグビー部)
青柳(松山東高等学校生徒会)
紅もゆる丘の花(本間重夫(昭和19卒))
ザ・ワールドラグビー(大友信彦)
日本フットボール考古学会(http://www.officei.co.jp/rugbya-qui/)
写真提供
大西 五郎(昭和13四修)
河本 忠勝(昭和31卒)
松崎 伸一(昭和57卒)
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ラグビー部戦績
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大会名
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戦績
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該当する卒業年
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新人戦
(坂本杯)
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優勝
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8回
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S24,
S25, S26, S32,S45, S47, S51, H4
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準優勝
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12回
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S27,
S28, S40, S42, S44, S46, S48, S50, S53, S55, H7, H14
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四国大会
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Aブロック優勝※1
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3回
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H1,
H4, H16
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Bブロック優勝※2
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10回
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S42,
S44, S45, S46, S47, S48, S50, S51, S57, H15
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県総体
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優勝
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7回
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S30,
S43, S45, S46, S51, H4, H16
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準優勝
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10回
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S40,
S41, S42, S47, S48, S50, S53, S55, S57, H3
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全国大会
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全国大会出場
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4回
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S14,
S15, S22, S45
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県優勝
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11回
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S8,
S9, S13, S14, S15, S18, S22, S23, S24, S25, S45
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県準優勝
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13回
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S10,
S11, S12, S16, S17, S30, S31, S33, S34, S41, S43, S44, S46
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※1;各県1位チームのトーナメント、※2;各県2位チームのトーナメント |
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